山陽小野田市の窯業文化を
継承することを決意してUターン。
日々技術を磨きながら、
陶芸家の道を進んでいます。
 

家を出てずっと気になっていた家業の製陶。
「このままではなくなる」と思い、継ぐことを決めました。
Q.山陽小野田市にUターンするまでの経緯を教えてください。

高校卒業後は東京の大学に進学し、就職先も東京を選びました。窯業を営む家に生まれましたがもともと焼物自体にあまり興味をもてず、継ぐつもりはありませんでした。しかし、妹2人も実家を出ていますし、私が継がなければ家族が120年近く守ってきた「松井製陶所」がなくなってしまうという思いが心にずっと引っかかっていました。

Uターンするきっかけとなったのは、家族の病気でした。母方の祖父の命が長くないことがわかった時期に、父の病気が再発したかもしれないという状況が重なり…。家族が大変な時に私がそばにいればみんなが安心するのではないかと考えるようになりました。しかし東京での暮らしは楽しかったですし職場環境もよかったので、しばらく悩みましたね。1ヶ月ほど考えた結果、「家業を絶やしたくない」という思いが強くなり、Uターンすることに決めました。

Q.ご家族の反応はいかがでしたか。

とても喜んでくれました。父が「ありがとう」と言ってくれたことがとても印象深いですね。また、3代目である父方の祖父も「元気なうちに全部教えたい」と家業を継ぐことを応援してくれました。

Q.そのほかにUターンを後押ししたことはありましたか。

東京に住んでいた時に、聞こえてくる山陽小野田市の話は「人口が減った」「商業施設がなくなった」というような内容でした。そんな話を聞くたびに地元が廃れていくのは寂しいことだと感じていました。実家の家業である製陶は、山陽小野田市の文化の一端を担うものでもありますし、私が継ぐことでまちを少しでも盛り上げることができればという思いもUターンの後押しになりました。

技術を身に付ける苦労がありながらも
陶芸の楽しさに魅せられています。
Q.現在の仕事について教えてください。

私の高祖父が1905(明治38)年に創業し、現在は4代目の父が代表を務める「松井製陶所」の陶芸家として働いています。山陽小野田市は窯業が盛んな土地で、古墳時代から須恵器などが作られていたという歴史があります。江戸時代には天塩皿などが作られていましたが、明治時代の中期、小野田に硫酸製造会社が創業したことをきっかけに、硫酸をいれるための陶製容器「硫酸瓶」の製造が始まりました。この辺りで採れる粘土は鉄分が含まれていて強度があり、酸にも強い性質だったので硫酸瓶の製造に適していたんです。そのためピーク時には約30軒もの製陶所が年間約80万本ほどの硫酸瓶を製造し、7割の国内シェアを誇っていたそうです。高祖父は硫酸瓶ではなく漁業で使うタコ壷や生活雑器を作っていましたが、硫酸瓶を作る技術を持っていたので新しく始める人に広めていたと聞いています。時代が進むにつれ硫酸の容器はステンレスなどにとって代わり、今では当社が市内で唯一の製陶所になりました。

現在は、両親と私が陶器の製造を行っています。企業向けの陶器が中心で、酸に強い特性を活かして練り梅を入れるための壷などを製造しています。花瓶やビアグラスなど一般家庭用のものはオーダー制で受け付けています。

Q.仕事を始めるにあたって、大変だったことはありますか?

家業とはいえ、たまに手伝いをする程度だったのですべてを一から覚えるのが大変でした。今になって小さい頃からもっと興味をもってやっていたらと後悔しています。父から教わりながらひたすら技術を磨いていますが、うまくいかないことも多いですね。ろくろ成形、焼成、釉(ゆう)がけなど一連の流れを一人でやれるようになるにはまだまだ時間がかかりそうです。

松井さんが考案したビアグラスの製造工程。型に流し込む鋳込み成形で作られる
山陽小野田市の窯業の伝統を受け継ぐ「松井製陶所」。
主に商業用の壷などを手がけているが、オーダーがあれば一般向けの作品も作るそう。
Q.仕事のやりがいを教えてください。

今では陶芸をとても楽しく感じ、家業を継ぐことを決めてよかったと思っています。そしてほぼ未経験からのスタートだったので、練習や経験を重ねるにつれ、少しずつ技術の向上を感じられるのもやりがいに繋がります。例えば、焼成は天候や気温に左右されるため、マニュアルを作ったとしても同じようには焼けません。最近は私も経験や感覚で窯を操れるようになってきたと自分自身の成長に気づけたのがうれしかったですね。

また山陽小野田市の文化のひとつとして、学生など若い世代に陶芸を広める機会があることもやりがいに繋がっています。現在は、小野田工業高校の3年生と一緒に小さな硫酸瓶を作っています。完成した硫酸瓶にLEDライトを埋め込んで「硫酸瓶ランタン」を作り、来年完成予定の商工会議所の敷地内に設置する予定です。学生との触れ合いも楽しいですし、一緒に作ったものが形になって残るのもうれしいです。

Q.今後の仕事の目標を教えてください。

まずは一連の作業をしっかりできるようになることが目標ですが、できるようになったらいろいろな器を作ってみたいですね。料理も好きなので、自分が作った器と一緒に楽しみたいと思います。また、東京を離れる時に友人たちがとても応援してくれて、飲食店の友人は私の器を使いたいと言ってくれたので、期待に応えられるような器を作れるようになりたいです。

改めて山陽小野田市のよさを再発見する日々。
地元を盛り上げる存在になっていきたい。
Q.Uターン後、生活はどう変わりましたか?

以前の仕事のように決められた勤務時間や休みがあるわけではないので、忙しさによって生活も変わります。基本的には朝8時頃から夕方6時頃まで働いていますが、注文が多い時期には月に4回窯に火入れをして、16~18時間窯に付きっきりということもあります。一方、ゆっくりしている時期は1~2か月火入れがないこともありますね。また、以前はデスクワークだったのですが、陶芸の仕事は体力が必要なので仕事終わりにトレーニングジムに行き、筋力アップをめざしています。東京に住んでいた頃に比べ、筋肉も脂肪も付き(笑)体がしっかりしましたね。やっぱり山陽小野田市は食べ物がおいしくて、食の楽しみも増えました。

Q.休日の過ごし方を教えてください。

ドライブを楽しむことが多いです。食べることが好きなので飲食店をめぐったり、カフェで時間を過ごしたりしています。東京のお店に比べて広くてゆったりとした雰囲気のお店が多いのもいいですね。東京時代の友人がこちらに遊びに来てくれた時もあちこち案内したのですが、きれいな海やおいしい食べ物をとても喜んでくれました。

「竜王山公園」は小さい頃から花見などでよく訪れていた思い出の場所。
山陽小野田市の市街地を一望。最近は夜のドライブで夜景を見に来るそう。
Q.暮らしのなかで不便に感じることはありますか?

遅くまで営業している飲食店が少ないことを少し不便に感じます。お酒は飲まないのですが、ジム帰りにご飯を食べて帰ろうと思ってもあまり開いているお店がないのが残念ですね。

Q.以前住んでいた時と、印象の変化はありますか?

私が高校生だった頃に比べ、やはり人が減っていることを感じます。電車の本数も減っているようですし、そういったところは少し寂しいですね。だからこそ、盛り上げていきたいという気持ちが湧いてきます。

穏やかな海を望む資材置き場もお気に入りの場所。
Q. 移住してよかったと思うのはどんな時ですか?

生まれ育った大好きなまち「山陽小野田市」で基盤を築き、生活できていることが帰ってきてよかったと思う点です。そして地元にいたのは高校生までだったので、大人になって行動範囲が広がり、山陽小野田市や山口県の魅力を改めて発見できているのもうれしいですね。今はここを離れている友人たちに、いずれUターンしたいと思われるよう、微力ながら帰ってきたくなるまちを作っていく存在になっていきたいと思います。

Q. 山陽小野田市に移住を考えている人にメッセージをお願いします。

ゆったりした雰囲気でありながら、空港が近く、新幹線の駅もあり、買い物する場所も揃っています。便利な場所ですが混雑することもなく、都会とは違った便利さがあると思います。少しでも気になったら、ぜひ山陽小野田市に足を運んでみてください。

※当インタビューは、2023年11月9日に行われたものです。